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地下鉄サリン事件 サリンの脅威 霞ヶ関駅で起こった真実 [ニュース]

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都内の地下鉄を突如、襲った『地下鉄サリン事件』から、今年で20年が経ちました。



あの事件の裏側には、警察・駅員などの命を張った行動などがあったそうです。



どんな事だったのか調べてみました。








1995年3月20日午前8時頃、オウム真理教の信者によって、営団地下鉄の丸ノ内線・日比谷線の各2編成、千代田線の1編成の車内で、化学兵器として使用される毒ガス・サリンが散布され、乗客・駅員12人が死亡し、5510人が重軽傷を負った。



秋庭俊先生は、『帝都東京・隠された地下網の秘密』の中で、このときのことを書いている。地下鉄サリン事件当日、千代田線の車両が霞ヶ関駅に停まり、3分以上も経った後、「地上に避難してください」と緊急放送が流れたというのだ。



これは、事実なのか?


オウム真理教・林郁夫によって新聞紙に包まれたサリン入りナイロン袋が置かれた代々木上原行きの電車は、午前8時12分ころ、霞ケ関駅に到着した。



霞ケ関駅では、異物があるという乗客の通報により、同駅の高橋一正助役が、先頭車両の車内から、サリン入りナイロン袋が入った新聞紙の包みを白手袋着用の両手で持って、ホーム上に運び出して置き、さらに、不要の新聞紙を使って、サリンが流れて付着している同車両の床を拭いた。



その後、高橋助役と、代々木電車区から応援に来ていた菱沼恒夫助役など計3人の駅員が、それらをビニール袋に入れ、同駅事務室に運んだ。



その後、同列車は、約2分遅れて、霞ケ関駅を発車し、国会議事堂前駅に到着したが、同駅では乗客全員を降車させて運転を中止した。



高橋助役と菱沼助役は、駅事務室までたどり着いた後、病院に運ばれ、間もなく息を引き取った。



菱沼さんは、代々木上原駅に、「気分が悪くなったので病院に行く」と電話連絡したのが、最後の言葉だったという。



当時の朝日新聞3月22日付朝刊は、菱沼さんが自宅に無言の帰宅をしたという記事を掲載している。娘さんが、もしも父がサリンを車内から運び出さなければ、もっと被害者が増えていたかもしれないと語っている。その通りだと思う。



当時、液体の中身がサリンと分かっていなかったとはいえ、彼らの捨て身の努力がなければ、さらに犠牲者は増えただろう。



3月20日午前、有毒ガスの原因はサリンと分かっていなかったが、駅員に死者が出た霞ヶ関駅では、サリンの異臭が漂う中を、駅員が必死の形相で乗客に避難を呼びかけていた。



「ここにいると命の補償ができません!すぐに避難してください!」



命の補償が出来ない場所で、駅員は最後まで残り、乗客たちを誘導した。同僚に死者まで出したのだ。駅の構造が複雑なら、なおさら声を枯らして、乗客に呼びかけたことだろう。捨て身の戦いをしたのは、死んだ人だけではなかったのだ。



秋庭先生は、自著の中で、おそらく、霞ヶ関駅の改札口がホームの下にあり、それが不便だ、おかしいと言いたかったのだろう。でも、妄想していいことと悪いことがある。



先ず第一に、千代田線の車両は、3分も停まらず、2分遅れで国会議事堂前に向けて発車した。第二に、車両が停車中には、上記のようにサリンの液体を取り除く作業を行っており、緊急放送は流れていない。



第三に、その車両の乗客に避難を指示したのは、霞ヶ関駅ではなく、運転を打ち切った国会議事堂前駅である。



一部ネットでは、このとき千代田線が霞ヶ関駅で運転を取りやめたという情報が書かれているが、調べてみたところ、サリンが散布された電車は、高橋助役らが車内を拭き取ったあと、国会議事堂前駅に向けて発車している。



当時、事件後、霞ヶ関駅は数日間、通過駅となった。自らの失態ではないとは言え、停めるべき駅を通過させなければならなかったのは、営団の職員たちは、おそらく鉄道マンとして断腸の思いだったに違いない。



秋庭先生の書き方では、まるで事故が起きたのに乗客は放置されていたように読めるが、命がけで事件と闘った地下鉄マンがいたということを、覚えておいてもらいたい。

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